昭和50年04月18日 朝の御理解



 御理解 第96節
 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」

 金光様のご信心は、知らない人が沢山ございます。知らぬどころかいろんな曲解をしている人がある。金光様の信心ありゃ金の字がついとるけん、金儲の神様じゃろうという様に又は、金光様はお狐さまですかと言った様な事を言う人がある。こんこん様ち言うから、お狐様ですかと。けれども知らないのですから、その程度に言う人があります。ですから神様に御参りをする。金光様のお教会に御参りをすると言う事を恥ずかしい。人前を恥じると言う様な所があると言う事は、本当に残念とも思いますけれども。
 昨日は合楽会でございましたから、遅うまで共励さして頂きました中に、そんな話が出ました。合楽の先生は狐を使いなさる。病気をつけたり落としたりしなさるげなと。それを誠しやかに、そう思うておる人達があると言う事。これも夕べのお話の中に、この近所からお参りをして来ておる方があります。それで朝けそけそとして帰られますから、その近所の方が、ゆっくりしておいでなさいと云うたら、早よう帰らんと近所の人達に目立つからと。あの人は金光様ども参りょるというて、笑われると云うのです。
 だから明るうなって帰ると、早よう帰らなと云う人があったという話も出ておりました。また昨日合楽の方達ばっかりですから、実は私達も初めはそういう気持ちであった。もう出来るだけお参りをして、帰りにゃ誰れん合わんが良かがと思うてお参りをしよった。段々、話を聞けば聞く程、もうそれこそ、有難いお話を頂けば頂く程、もう当然この世に生を受けた人間が、全部金光様の御信心を頂き、教えを頂いて、天地の親神様へ神恩報謝の心をもって生活をさせて頂く。
 そしてこの世には、魂を清めに来たといわれるのだから、本気で魂を清めさせて頂く、楽しみ喜びをもってお参りしなければならない程しの神様だと言う事を、段々分かってきた。この頃では、昨日合楽会に入会して、日々日参を続けておられる方達ばかり殆どでしたから、問題は私達が本当におかげを受けて、それを近所隣の方達にでも示して行くより他にはないという様な話もございました。
 ある方が久保山さんが云っておられました。近所にどうでも連れて参って呉れと云われるし、今日は大祭じゃから、ぜひお参りしなさいと云うたら、大祭には近所の人が参っとんなさろうけんで、誰れん参っとんなさらん時が良かち云いなさったち。それはどういう事かと云うと皆と一緒に、金光様が合楽の地にお祀りになった。金光様がここに教会が出来た。その当時にあられぬ噂を聞いては、話を聞いてはその悪口を聞くだけでなく、自分も言いよりなさったちゃなかじゃろうかと思いますと言う様な話があった。
 自分も悪口を言いよった所に、あの人は自分もあげん悪口を言いよってから、参りよってと言われちゃ気恥かしい。けどまぁ早晩とにかく難儀な問題が出来て、お参りしたいと云いよんなさるから、連れて参って呉れと云いよんなさるとじゃから、参って見えるだろうと云う話。本当に知らんのですから、金光様のご信心が分かってないのですから、勿論それはこの前の、御大祭の私の話を聞きながら、ある隣接教会の先生が、あゝ今日のお話でおかげを頂いたち。
 おかげ頂いたけれどもあゝ云う難しい話は、恐らくは信者には分かるまいと云われた。と云う程しに合楽のお話は高度なんです。もうどんなに分かり易く分かり易く説きましてもね、合楽の信心は大変な高度です。そげな段じゃなか親先生の仰る事は、いちいち分かると云うて、分かっただけじゃでけん。その内容が自分のものになって行かなければ分からないと同じ事です。
 やはり、合楽の信心は難しいと言う事になります。然もそれだけ高度だと言う事になります。だから、それが分かって、人にも伝えられると言う事になった時です、又それが表わして行けれる様になった時です。私は金光様の信心が、高い評価をもって見られる様になるんだと思います。どうでも銘々自身がです、本当に合楽の信心の内容を身に着けて、それが現わし、いや実を云うたら神様が現われて下さる程しの、おかげでなからなければならんと言う事でございます。
 そういう金光教の過渡期でもあるし、合楽教会の過渡期でもあるのですから、未だ百年そこそこの宗教ですし、又合楽教会が出来てようやく七、八年にしかならない教会ですから。それは表を通ったりただ見ておる人達は、どう言う事がありよるじゃろうかと、好奇心は持っておるです。けれども人がお狐さんを使いなさるとじゃろうと言う事を聞いたりすると、何か低級な信心の様に思う。それこそ近所の人の手前もあるけんでという様なところから、お互いがおかげを頂くのですけれども。
 これも久保山さんの姉さんの方が話しになっとられましたけれども。初めの間は私共もそげんじゃった。もう本当、帰る途々人に会わんが良かと思いよったけれども、この頃は、人にでん会うほうがええ。あゝお参りですかと云われる方が良い。御参りさせて頂きよります、何か聞かれた方が良い。そして自分のおかげを頂いたお話をさせて頂く事が、まぁ私は誇りに思います。
 これは夕べはその話をなさいませんでしたけれども、久保山さんはそういうて。最近は、合楽の信心を頂いておるという事、娘達でも家に電話をかけて、居らん時にはあゝほんならお母さん、金光様じゃろうと親戚子供達は、みんな云うてくれる様になりましたと、いう話をしておられました。いやそれがこの頃金光様に日参しておると言う事が誇りに思いますという程しにおかげを頂いておる。
 だからそういう信心がです、自身頂いておっても人はそうですから、それこそ不思議に、自分の事を悪口を言われる事はそうでもないけれども、自分が信じておる人やら、信じておる神様の事を悪う汚う云われると腹が立つのです。けどもそれは昨日の御理解から云うと、腹を立てるのじゃないです。そういう時こそ愈々神様を現わさして頂ける時だと信じて、神様あなたの御比礼でございますと、心の中にお祝を申し上げる様な心が、段々出来てくる様に開けて来ると有難いですね。
 ですからこれは金光様にお参りをさせて頂くと云う事が、誇りに思うと云う様な心の状態。又はこれは同じ意味の事が云えると思うですけれども。玉水教会ね当時今でもそうですけれども、大変な御比礼を受けられて、日本一と云われる程しの教会です。大阪の玉水教会に、或る日お高僧頭巾を被った婦人が御参りをして、お取次を頂いた。どうして頭巾を取らないのかと云ったら、実は恥ずかしくて取られない。
 頭が禿げていると云うのです。それで玉水の先生が仰った。明日からねそのお高僧頭巾を取って参って来いと、こう言いなさった。こんなに沢山御参りがあっておるのに、禿頭では。それがね恥ずかしい位ではおかげにならんぞ、と仰ったそうです。それから翌る日からそれこそ堂々とお高僧頭巾を取ってお参りされるようになりましたら、段々その禿頭から、それこそ毛が生えだした。もうしまいにはそれこそふさふさする様な緑の黒髪を頂いたと云う御話があります。
 いかにね金光様に御参りするとが気恥ずかしいとか、信心はと云われたら私は合楽にお参りしとりますと、堂々と云へる様にならなければおかげにならんと言う事が解りますですね。段々信心を頂きまして、本当に神様が顔を洗うてやると仰せられる所まで、おかげを頂かねばなりません。あの人達がまぁ低級な神様じゃろうと思いよったが、あの人達が参りよんなさるが、やっぱりよっぽど素晴らしく、教えが素晴らしいじゃろう、あの人が変わりなさった。
 あちらの一家が皆改まって行きよんなさると言う事にならなければいけんのです。昨日、私はある方のお取次ぎをさせて頂いたんです。もう熱心ですけれども、人が色々非難するわけです。改まらにゃいけん事があるわけなんです。本人も改まろうという気がないわけじゃないのですけれども、一寸だらしないところがあるわけですね。それて、その人の事を評してです、信心のない者が、どういうとるかと云うと、合楽の金光様はだらしないという様な、その人を通してそういう風な見方をしておる。
 私はそのお取次をさせて頂きましたら、鉋丁貝という長い貝があります。あれがこうやって口を開けてダラッとこう、身が出てる所を頂きましたやっぱりだらしなく見えますよね。貝がデレッとこう所があれは生きている印であり、一寸触るとピシャッと閉めるでしょうあれは人間ですからどんなダラシない事があっても良い。まぁ人から見られても自分でも自分の様なだらしない人間は居らんと思う様な事があるのが人間です。いつもパッと口を閉めとるのは中に砂どんが詰まっとるとじゃ本なもんじゃないです。
 よく道徳的な事を言う人達は、そういうのがあります。見掛けだけはそげんですけども、宗教家やら、学校の先生やらが旅行をしますと、旅行先でね一番だらしのないのは宗教家と学校の先生だと、宿屋の女中さんが云われたという話しを聞いて、成程と合点が行きます。日頃は、それこそ立派な導師の様にしておるけれども、人間ですから矢張りヤレヤレと気を緩めると、一遍にだらしがなくなると云うわけなんです。
 ですからそれは実を云うたらおかげなのです。いわば御の字をつけて行けれる内容を頂いたら、素晴らしい、有難い事なのですけれども。それが人の前でも平気で、そういうだらしのない事を云うたりしたりしておりますから、金光様の信心ちゃ大体だらしがないとじゃろう、合楽の金光様までそういう風な見方をされるという様な所がある方なんです。今云うデレッとした貝を頂いた。
 けどもそれは生きておる印ですから有難いのですけれどね。例えばピシャッとすれば、ピシャッと口を閉めると言う事なんですけれども、例えばパッと触られてもです、もし口を閉めないとするならば、それは本当に腐っとるとです。ここは一骨いうならば改まらんならんと本当に自分で思うたらです。それがピシャッと改まれるおかげを頂かなければ、やはり中身が腐っておるんだと思うてです。腐った自分を生き生きとしたものにしてゆく精進をしなければいけないと云う意味の御理解を頂いた。
 いうならばです金光様のご信心を頂きよって、一遍には出来んけど去年よりも今年と言う様にです。人物が変わると言う事は改まって行くと言う事なんです。今まではとやこう非難のあった人がです。そういうものが無くなって段々シャンとして来るのです。改まって行くと言う事。だから改まりが出来てなかったなら先ずは触れられても、ピシャッとするものがないならば、あなたの信心は腐った様な信心だと思うて本気で是は自分自身を、本当に恥ずかしい事だと思うて、改めて行かなければいけないと思うですね。
 そういう風に改まって行かなければ、神の事をとやこう云うが、とやこう言い続けられたんじゃでけんです。とやこう云う人があってもです、初めの間は皆が笑いよったけれども、成程神様じゃなぁ成程、金光様の御信者じゃなぁと云うおかげを頂いて行く為にはです。そこが出来なければいけない。いつまでも笑われ続けとったんじゃでけんです。それこそ神様を本当に現わし申し上げるところの信心が出来なければいけません。これも昨日合楽会でお話しした事でしたけれど。
 昨日は御大祭後に総代さん方、皆御一緒に御礼参拝を親教会にさせて貰いました。まぁ色々とお礼のお下がりを持って行きます中に、金樽のお神酒を必ず持って行くんです。昨日私が持って行ったのは、御神前にお供えしてあるのではなくして、包装紙にまだ包んだままのを持って行ったんです。それでこちらのお神酒はお下がりですからと云うて、勝手の方へ、色々お下がりを勝手の方へ持って行った。
 そしてその金樽のほうだけは、私はお供えしてないのですから御結界に持って行って、これはお供えしとりませんから、昨日はお月次祭ですから、お祭りにお供えして貰いたいと思うて、そこに私は出したんです。そしたらね神様がその事をお届けさして頂いて、お礼申し上げた途端にね、金樽ではないですけど菰包みですねお酒の。菰包みの縄の所にエボがついとる。エボち云うが荷札がついてる。その荷札をプツッと切られた所を頂いた。私はもうビックリしました。
 それで私は改めてご神前に出て、その事を私は心からお詫びさせて頂きました。善導寺で。というのはどう言う事かと云うと、この事から私は思わして頂くのですけれど、真心と云う事は素晴らしい。皆が御大祭だからと云うて、金樽のお供えでしたけれども、金樽は四つしか乗らんから、それをお供えしてなかった訳です。御神前に出してなかった訳です。けれども氏子は真心からお供えとして持って来ておるから、神は御供えとして受け取っておるとおっしゃる訳です。
 だから矢張りお下がりだち云うのです。皆さんがああしてお供えなさいますでしょう。例え御神前に御供えが出てなかってもです、御供えとして持って来たら、もう神様が御供えとして受けてござるわけです。それを私がこれはお供えじゃないてんなんてんち云うとね。嘘を言う様な事になる。だからエボを切られたという事は、おまえが折角お供えしとるけれども、行く所に行かんぞと言う事です。荷札がなかったらどこへ送って良いじゃ分からんでしょう。
 その荷札を切られたんじゃ折角お供えをしたのが、神様が受け取る事にはならんぞとおっしゃるのです。あゝほんに今からこげなこつどん云うちから、お供えしちゃならんなと思いました。だからここで分かる事は皆さんの御供えは、神様が必ず受けて下さるという事が分かります。お三宝の上に乗っとらんでも、受けて下さってある事だけは分かります。それを私がお供えしとらんと云うて持って行っとるとじゃ。だからそれが神の気感に適わん。その荷札をプツッと切られた所を頂いた。
 そこをお詫びさせて頂いた事でございましたけれどもです。丁度私が親教会に出ろうとして、皆さんが待ち構えておられる時に、田中さんから電話が掛かって来た。私は昨日もその話しをしたら、田中さんかと思うたらなんの田中さんの娘、楽の御用を頂いとる清子さんが、昨日から竹内さんという今度市会議員に立っとられる。そこの手伝いに行きよるんです。それでその清子さんがいわば示現活動をしたわけですよ。「竹内つぁん今日から選挙開きなら、合楽の金光様にお参りしなさい」と云った訳なんですよ。
 そんなら連れて参って呉れと云うので、清子さんが掛けたらしいのです。電話を善導寺から。「今からすぐ出掛けますから、親先生に居って頂く様に」と云う事でした。私がほんな出る寸前でした。それで待っとたばってん、一時は来んです。その村内の方からじゃなくて、善導寺から来よるもんですけん。暫く待っとたらやって来ました。そこで竹内と云う、今度市会議員に立ちます候補者が、お参りして来るそうですからと、お届けさして頂いておったらね。『御神前に明々と電気をつけとけ』と神様から頂いた。
 いつもこの通りでしょう。ですから内殿とそこの外殿の所に、電気をつけさして頂いておりましたら、すぐ見えました。御理解に『今度は当選せんと、精進の水引を頂いた』。折角参って来たとじゃけん、どうかおかげ頂かにゃと。昨日聞かせて頂いたら、この善導寺地区から今度二人立っとんなさるげなね。やっぱだから苦戦なんでしょう。それは夕べ聞かせて頂いた話しですけども。そげなこっちゃいけんからと思うて、その神殿を明るくされた事の理由を聞かせて頂いたらね。
 本人が焦々ああどうなるじゃろうかと思うて、心を暗くしとったらね。御神前が明々として、生き生きとして賑やかな所を見たら、自分の心も賑やこうなるじゃろう。だから神様が演出して下さりよる。いうならそれは本当じゃないけども嘘なんです。そして御理解に頂く事がです。その精進の黒白の水引を赤と白の水引きに段々変わって行く所を頂いたから「しっかり頑張りなさいよ。愈々これが紅白に変わってしまわねばいかんですよ」と云うたら大変、何か元気が出たようにしてねまぁ喜んで帰られました。
 そのことから思わして貰うてです。私には例えばその御供えの時に、嘘の様になっているわけですね。御供えになっているものを、未だお供えしとらんと言うて持って行く事を。そんなに行く所に行かんぞと。神が受け取らんとまで、いわば厳しく教えて下さるかと思うと、その私の出掛けには、神様が候補者に嘘を言うてござる。だからこの辺の所を、昨日も私は話したんですけれども。
 神様が昨日はあげん言うちから、今日はこげん言いなさってから、良い加減な事ばかり言いなさるといった様な思い方をしてはならん。信心をさせて頂く者はこれが赤を白と言われても、はぁ白でございますかと言う気持ちで信心せにゃいかん。本気で赤を白と言われてもです、成程白だと思いよったらね、白になると私がこれは昔から、この事は言われた事です。取次者が白を赤と言うてもです。そりゃあなた白じゃないですか、赤じゃないですかと言う様な事ではおかげにならん。
 はぁそうで御座いますかと、御無理御尤もで頂いて行く所に、お道の信心の真髄があると言う事を言われております。昨日反省会の時に、私が色々一杯ささっとったから、修行生の方達に、昨日は反省会ですからね、不行き届きの事を私が申しました。そして私が、桜井先生が御用の時に、末永先生から、「神饌室のお掃除の御用をしてくれと言われましたから、今日はおかげ頂きます」と言うた事を取り上げて、「そう言う事を人に頼んでから、いかん」とこう言った訳です。
 そしたら「先生、私はそげな事は言いません。桜井先生が御用はないですかと言いなさったから言いました。そげなことは私は口の裂けたっちゃ言いません」と言うたです。だから向こうから、久富先生が「末永さん、そげな事ば親先生に言うちから」と、言いよんなさいました。そりゃ成程、末永さんが言うとが本なことですけれども、私が末永さんに言うたと言う事はです。十三日はお湿りであった。
 御用に来たけども外の御用が出来なかった。だから本当は十四日のお天気になった日に、皆が出て来て御用でもさせてもらわなければいけない事を指摘したいけども、信者一般を悪口言うよりも、修行の方を言うた方がよかろうと思うて言うた。皆に聞かせる為に言うたっじゃ。所が相手はむきになって、私はそげな事は言いません。口が裂けたっちゃ私は言わんちいう訳なんです。実を言うたら修行生は、言わんじゃいかん言わにゃいけんです。私が言わんと決めとるのですから、本当言うたら真心をもって。
 そしたら昨日、久富先生がですね。綾部さん所から、一斗入りのお神酒が二箱来とったが、お供えしちゃないですもん。あらどうしてかと言うたら、それがあなた久富先生が、お酒は沢山あるけんで、親先生がおビールを召しあがるけんで、おビールと替えて呉れと言うたげな。それで確かに、おビールが三箱来とったです。そるけんお神酒がお供えしてなかった筈ですけど、これはちいとは言い過ぎですね、いくら何でっちゃ。折角真心込めて持って来とるとばですね。
 親先生はビールを召し上がるから、ビールと替えてくれと。ほんなら替えてあげましょうと云うて、あそこの店員さんが持って帰って、ビールと替えて来とる訳です。だからね、言わなきゃならん事もあるです修行生は。口が裂けたっちゃ言わんてんなんてんち言いよった分ではでけんです。そりゃOOさんこうこうですもんね、あゝですもんねとヒントを与える事は良い。その為に私に手になり、足になって言いよるとじゃけん、親先生が大体云いとうもあんなさろうけれども。
 親先生は云わんと立てとるけんでと、修行生までも云わんと立てたんじゃ、いけんところがありましょうもん。ですから口の裂けたっちゃ云わんじゃいけん。やっぱり云わにゃならんところと、久富先生のそう言う事は、これはやっぱ私がそげん云うたもんじゃけん、久富先生は私は云いよりますと云うことです。けどもそげな事云うちからと言うて、まぁ申しましたけどね。これは信者さん方でもそうですよ。
 信者さん同志言わにゃならんところは云うて、やっぱり指摘をして、そこはこうしなさったが方が良かですよと、教えて行くのが先輩です。と云う様な事からです。所謂親先生があゝ云われた。実はあげんじゃなかばってんと思うたっちゃ、はいそうですかと御無理ごもっともで頂いて行くのがお道の信心ぞ、と言う様な事をね昨日話さして頂いた。そういう信心からです、白が赤になる程しのおかげを頂いて、現わして行かなければ、いつまでも神の事をとやこう云われる。
 修行生の事を人がとやこう云われても、それを神の比礼として受けて行くけども、初めはあゝじゃったけれども、最近はOO先生は、あげん素晴らしくなられたと云う風に云われる様にならなければいけんでしょうもん。おかげを頂きましてから、昨日末永さんが、いわば、お父さんになりました。おかげを頂いてもう玉の様な息子の子が生れました。これは。本人が云うとですから間違いないでしょう。私はこの人が云う事ば、ちょいと昨日、「親先生、それこそ玉のごたる息子が生れました」ち。
 あれは人が言う事であって、お父さんが云うちゃでけんじゃん。親っちゃあげんなもんでしょうね。それこそ親馬鹿チャンリンちゃあれの事じゃろうと思う。わが目から見りゃ、玉のごとあったくさのうややっぱ。おかげを頂きましてね、おなかが少し大き過ぎとりましたですよ。だから小野先生が、切開手術をせにゃいかんと云うわけです。それから今日はどうでも御飯を食べんな来いと言う事じゃった。けれども医者が云うならば、医者の云う通りの気持ちで行けと云うて、それこそ断食して行った訳です。
 そしてその日に手術がある筈じゃったところが、急にその重態患者が入った訳です。だから、先生も看護婦も足らんもんじゃけんで、良い加減なもんじゃありますたいね。するちゅうてからせんち明日するち。まぁそこがおかげです。一日経たせて頂いた。おかげでこうこして無事それこそ本当に玉の様な息子が、安産のもう自然のお働きの中に起きた。そりばってん神様の働きちゃ素晴らしいと思いましたよ。だから急患の重態患者も違わん、おかげ頂いたじゃろうと私は思いました。
 もう公子先生の為に重態になったんじゃ。だから慌てて公子さんの方はほったらかされたわけです。そのほうからかされた事がおかげになって、痛い思いをしたり不自然な事をせんでおかげを頂く事になったんです。そういうおかげの頂ける神様ですから、如何に自然の働きそのものをです、本当に素直に純な心で受けて行く。それこそ赤を白と云われても、「はい」といわれる様な純なものを育てて行かなければいけない。そこから人がたまがる様なおかげになって来る、自分も変わって行く事が出来る。
 日に日に改まる事が信心だと、変わって来る。だから初めは例え悪口であっても、成程、神様じゃなぁ、成程、金光様じゃなぁと言う事になった時に、初めて神が顔を洗うてやるとおっしゃるのはそう言う事です。只汚れとるとば神様がこうこやって拭いて下さるとじゃないです。おかげを頂いて現わす事が、神が顔を洗うてやると仰るおかげに繋らなければ、本当のおかげではないと云う。只辛抱さえしとれば神様が顔を立てて下さるじゃろうじゃはなくて、自分が変わっておかげを頂くからこそです。
 初めて顔を洗う事になるでしょうもん。洗うて頂く事になるのでしょうもん。此処の御普請がある時に、二年間もかかった。此処の前を通る人が、初めは何が出来るよるとじゃろうかと思いよった。そりゃ金光様げな、ちょいと金が無かとじゃろう、いつまでも建たんと云いよった。いうなら笑われよった。所が実際出来上がった時に、此処の前をそういうて通りよった人達がです。成程神様じゃなぁと云うたという話を聞きました。それが神様が顔を洗うて下さる事なんです。
 どんなに貧乏をしとっても良い。金光様の信心すりゃどうしてあげん病気せんならんじゃろうかという様な事があっても良い。人から笑われる様な事があっても良いけれども、それが続いておれば、いつかは顔を拭いて貰うという様な事は、それがおかげを頂いた時に、神が顔を洗うてやると言う事になるのです。本当に神様から顔を洗うて貰う程しのおかげを頂きたいですね。
   どうぞ。